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商品コード:
BHPK500-41050-060

ヘミア・ピン・ニズボウルPK500 デキャンター060 600cc 10%Off

通常価格(税込):
60,500
販売価格(税込):
54,450
関連カテゴリ:
ボヘミア > PK500 食器/ バスケット

ボヘミアにおけるガラス工芸の歴史は、13世紀に遡る。12世紀のボヘミアでは教会で使用されるステンドグラスが作られていたが、世俗社会との関係は低く、一般向けのガラス容器が作られるのは13世紀に入ってからである。

チェコのボヘミア地方には 2~300社のカッティングメーカがありまして ピン・キリ乍ら 皆ボヘミアを呼称しております。
しかしブランク(加工前のボディ)を作れるのは たった四軒しかありません。
(ムラノ島に 手作りの ヴェネツィアンクリスタッロ工房が 4軒しか残っていないのも 共に千数百年を今に生きる 両者の奇しき偶然でしょうか) 
その中でもニズボウル村の リックル社が 最高だとチェコの人は申します。

あるんですよ!アインには!その最高のニズボウルが! 人呼んでボヘミアNo.1(ピン)細密・鋭角なハンドカットです。

このデキャンター060に 貼付されていたラベルは 今は無き グラスエキスポート社のものです(ボックスのみ ニズボウル)。チェコスロヴァキアが 共産主義国であった時 国立のグラスエキスポート社は ボヘミアン・クリスタルの輸出独占権を 保持し 日本代理店へは 最高のニズボウルのみを厳選輸出しておりました。
チェコの共産政権が瓦解して 自由主義国になると共に独占権は 放棄さされました。雨後の筍のように 林立するコンペチターは 値段競争から 安価な品を 堰を切った如く世界へ 日本へと 送り出したのです。「悪貨は 良貨を駆逐する」 正に地を行く如く 哀れ ニズボウルを 死守せんとする グラスエキスポート社は 自由化後 1年を経ずして 倒産の憂き目を見ました。

アインはニズボウル村のリックル社に 発注するのですが 日本代理店に未練のあるニズボウルは アインのオーダーも捨て難く グラスエキスポート社のラベルを貼付して(ボックスのみ ニズボウル) 出荷してきました。やがて 煮え切らぬ代理店に業を煮やした リックル社は 高価な ニズボウルに 拘リ続ける アインに ニズボウルラベルを 貼付する決断を下しました。アインにはその時から ニズボウル・シグネチャー・クリスタルが 睥睨しております。

今や 時代は ボヘミアライトガラスへ 到っております中で アインは  2段階上の ニズボウルを頑固に 取り扱っております。

ボヘミアは、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。
この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。
ボヘミアをチェコ語ではチェヒと呼び、チェコ共和国通称チェコをチェヒとも呼ぶ。由来は6世紀頃までに形成されたチェコ人にあり、意味は「『人々/光』の土地」である。

ボヘミアガラス・ミュシャ
紀元前エジプトで発見されたガラスは紀元初期ローマに伝わり ボヘミアでは9世紀に始まりました。13世紀 ヴェネツィアガラスの製造技術が伝えられていたが、ガラス産業の規模は小さかった。 中世のボヘミアで生産されたガラスは森林地帯で作られる厚手のヴァルトグラス(森林グラス)が中心で、技法は父子相伝のものとなっていた。14世紀に入り神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王としてはカレル1世)の治下でプラハがヨーロッパ文化の中心地として繁栄していた時代に、ボヘミアガラスの骨組みが出来上がる。カール4世の時代にボヘミアとヴェネツィアの関係が深まると、徐々にヴェネツィアン・グラスを手本としたガラスが製造されるようになる。しかし、当時のボヘミアガラスは工芸品としては未成熟で、優れた技術はもっぱらステンドグラスの製造に生かされていた。15世紀末までにチェコ・ドイツ国境の森林地帯でガラス工房が発展していき、14世紀末には既に約20のガラス工房がボヘミアに存在していた。
14世紀末から15世紀初頭のボヘミアでは、主にビザンチングラスの様式を継承したグラスが製造されていた。15世紀半ばにビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡、この頃からヴェネツィアのムラーノ島から抜け出してボヘミアに移住するガラス職人が増え始める。16世紀には約90の工房がボヘミアに存在し、ビザンツ、ヴェネツィア、ドイツといった外国の様式を模したグラスが作られていた。17世紀のバロック時代まではヴェネツィアがヨーロッパのガラス容器の生産の中心地であり、ボヘミアのガラス製品もヴェネツィアの影響を受けていた。プラハを帝国の首都とした神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は学芸の保護者として知られ、特にガラス工芸を熱心に保護した。17世紀前半にプラハの宝石カッティング職人カスパル・レーマンによって、銅やブロンズ製の回転砥石で宝石をカットするエングレーヴィング技術のガラス細工への応用が考案される。従来のヴェネツィア式のエナメルを使用した絵柄の描画に代わってガラスに直接絵柄が掘り込まれるようになり(グラヴィール彫刻の始まり)、レーマンはルドルフ2世からグラヴィールの独占権を認められた。グラヴィール彫刻はボヘミアとシレジアに普及し、レーマンの弟子ゲオルグ・シュヴァンハルトによってニュルンベルクに伝えられ、ドイツ、オーストリアにも技術が広まった。それ以降、従来の加工法を結合させ、装飾的なバロック様式が施されたガラス細工がヨーロッパの市場で知られるようになった。プラハの宮廷で流行したボヘミアガラスはハプスブルク家の愛用品となり、ヨーロッパ各国の宮廷で珍重された。レーマンら初期のガラス職人の作品は、ガラスを面ごと削ぎ取ったとも思える大胆なカットと、緻密な掘り込みが共存しており、彼らが培った伝統は後世の最高級品の中にも根付いている。
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