ブランド箱 330円 ギフト包装用に正規代理店から購入
伊名 ラ スカラ
オペラの殿堂 ミラノ・スカラ座をイメージして
初代の宮廷劇場以来の伝統を持つイタリアオペラ界の最高峰とされる。
現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・ドゥカーレは 1776年2月、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失した。
ミラノ・スカラ座
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
豪華な手描き金彩 不思議な静けさを グリーンが醸します。
インペロシェープ
ジノリを 代表する アンピール様式の花
(ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生)
写真はクリック拡大
反対面 ソーサー絵・カップ正面 取っ手面
どの小さい写真もクリックで拡大
ドッチア窯 金ロゴ
類稀な 美貌と知性の女性は 鄙に生まれながら 自らの運命に従い 皇帝の妃に。
生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでも カオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外のドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。帝立ウィーン窯のオーナー・ハプスブルク王家マリアテレジア王妃に 2代目ジノリ侯が 白磁と当時流行のジャポネズリ絵付けの 完成度を誇って 献上した逸品が グランデューカです。当時 白磁戦争は 国王の威信を賭けたもので 金に飽かして 賞賛される銘品逸品が 求められました。
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年ごろからリモージュのカオリンを 用いることで完璧な白磁を完成させております。
1834年には スペイン王カルロ3世の カポデモンテ窯の 閉窯に際し モールド類を引き取り以後 ジノリが カポデモンテを引き継いでおります(カポディモンティ窯と ジノリについては ジノリ社の主張に 俄かには信じ難きことあり もっと検証後に)。
1869年には リチャード社を 合併して 今の リチャードジノリ社になりました。
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して 新しい 芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。